がんにとらわれず、恋愛も結婚もあきらめない

~AYA世代の“元気に生きるための心得”~(2022年8月取材)

話し手:きゃしーさん

24歳のときに肺がんが発覚し、現在でも仕事をしながら服薬治療を続けられています。肺がん治療中に出会った男性とご結婚されており、AYA世代の希望になればと、ブログでは病気についてだけでなくプライベートなことまで素直な気持ちを発信されています。

腫瘍は切除したがその後転移が発覚

-ご病気の診断までの流れを教えてください。

24歳のときにがんが疑われる腫瘍が右肺下葉に見つかり、その切除手術をしました。その後、切除した組織の細胞診断で悪性と判定され、肺腺がんと診断されました。そのときから今まで、ステージについては一度も聞いていません。
当初は、腫瘍は手術で簡単に取れると聞いていたのであまり不安はなく、むしろ初めての入院に対する好奇心のほうが大きかったです。それに、切除してしまえば問題ないと思っていたので、手術の前はいつものようにショッピングなどをして楽しく過ごしていました。

-手術のあとはどうなったのでしょうか。

手術はうまくいったけれど再発防止は必要とのことで、手術の2カ月後から術後補助療法を4クールおこないました。同時に放射線治療も25回おこないました。放射線治療開始2日目あたりから、倦怠感やむくみのほか、放射線酔いや食道炎などの副作用が出ました。副作用については7日間程度でおさまった副作用と、生活にも影響があった副作用にわかれました。退院してからも、すぐに社会復帰はできず、ひと月半ほどかけての社会復帰となりました。
社会復帰後は「病は気からだよね」、「笑っていれば病気なんて寄ってこない」などといって、がんのことはあまり気にしていませんでした。ところが何度目かの経過観察の受診をした際、主治医から「転移している可能性がある」といわれました。

-手術で終わりではなかったわけですね。

転移の疑いから臓器内転移と確定診断されるまでにいろいろな検査がありました。私はその間、「なぜまたこんなに病院に来なくてはいけないんだろう」とか、「なぜまたこんな検査をしているんだろう」と思い、泣きながら過ごしていました。かなり不安定な精神状態だったので、普段はそれほど苦手でもない注射まで、気分が悪くなってしまうことがありました。

転移後の治療は分子標的薬

-転移に対してはどのような治療が開始されたのでしょうか。

経口の分子標的薬による治療を開始しました。服薬治療になったので、担当が呼吸器外科から呼吸器内科に変更になりました。術後に一度経験した抗がん剤治療と同様に一定期間服薬すればおしまいと思っていたので、新しい主治医に「早く治療を始めて、早く終わりたいです」とお願いしました。ところが主治医から、「今回はそういう治療ではないんです。入院は必要ありませんが、服薬はこれから先ずっと続けていただくことになります」といわれました。つまり、終わりがある治療ではないということです。私はとても混乱し、落ち込みました。

-その時の状況としてはいかがでしたでしょうか。

当時を思い出すと、とにかくつらいだけの毎日でした。ただ、お付き合いしていた人が「自分のために生きていてくれるだけでいい」といってくれたので、その言葉を唯一のよりどころに、「この人のために頑張って生きよう」と思いました。

-転移後の治療中はいかがでしたでしょうか。

治療のせいなのかどうかはわからなかったのですが、鼻血や筋肉痛などがありました。そのことを主治医に相談しましたが、うまくコミュニケーションがとれず、落ち込み、取り残された気持ちになりました。
そうしたとき、私が通っている病院に緩和ケア外来という診療科があることに気がつきました。自分がうつ病だと思ったわけではありませんが、そのときの心のつらさを少しでも和らげられる方法はないものかと、すがるような気持ちで緩和ケア外来の扉をたたきました。

緩和ケアも新しい主治医も心の支えに

-緩和ケア外来は助けになりましたか。

はい。分子標的薬の治療を始めて2年ほど経っていたのですが、がんと診断されてからのことを思いつくままに緩和ケア外来の先生にお話ししました。先生はときおり相づちを打ちながら、とにかく私の話にずっと耳を傾けてくれました。だれかに聞いてほしいと思っていたことが、私の心の中にこんなにたまっていたのかと、涙が止まりませんでした。そして私がひと通り話し終えると、先生が「ここは普通の外来とは違って、私のほうからもう治療は終わりですということはありません。あなたが来たいときにいつでも、いつまでも来ていいんですよ」といってくれました。やっと自分の気持ちを話せるところが見つかったと思い、またうれしくて涙が出ました。

-緩和ケア外来の看護師さんとお話しすることはありませんか。

もちろんあります。緩和ケアの先生は初診時に「ここには私以外に、看護師やカウンセラーもいるので、看護師にはこういうお話、カウンセラーにはこういう相談というように、私だけでなく、きゃしーさんのお気持ちに応じて話し相手を代えてもいいんですよ」といってくれました。私がお姉さんのように思っている看護師さんが1人いるのですが、その人は「私の胸を貸すからいくらでも泣いていいよ」なんていうんです。本当にやさしくて、胸がいっぱいになります。緩和ケア外来はそういうところなので、今は私の心の支えのひとつになっています。

-ひとつということは、ほかにも支えがあるのでしょうか。

実は緩和ケア外来に行き始めて1カ月ほどたったとき、呼吸器内科の主治医が代わりました。私はそれまで、再診時の予約を午後の診察の2~3番目ぐらいに取っていたのですが、新しい先生の初めての診察について、「順番を最後にしてもいいですか」といわれました。その方が時間を気にせずにじっくり話ができるから、とのことでした。私の話をしっかり聞いてくれる人がもう1人増えたと思い、とてもうれしい気持ちになりました。そして、初めての診察を終え帰ろうとしたとき、「ぼちぼちやりましょうね、先は長いですから」ともいわれました。あまり先のことは考えていなかったのですが、「ああそうなんだ。先は長いのか」と思うと同時に、「よし頑張ろう」という気持ちが湧いてきました。私はAYA世代、まだ若いんです。将来のことまで一緒に考えてくれる先生と出会えて、本当によかったと思いました。

自分と同じ状況にある人とつながりたい

-お友だちなど、周囲の人たちに病気のことを伝えましたか。

がんと診断されたときは、友人のほぼ全員に伝えました。手術をすれば治ると考えていたので、入院だからみんなお見舞いに来てねと、実にお気楽に話していました。ただ転移がわかってからは、気持ちが落ち込んだこともあって、すごく仲のいい友人以外には病気のことを伝えていません。特に、現在の治療を続けている限り妊娠できないことを知ったときは、とてもショックでした。そういったことで気持ちが暗くなっていたときに、小学生から仲がよかった友人が連絡をくれて、話を聞いてくれたことがとてもうれしかったのを覚えています。

-がんの当事者の方たちを支援する仕組みとして、患者会やピアサポーターなどいくつかあります。利用されたことはありますか。

転移と診断された当時は、とにかく同じ病気の人とつながりたい、同じ状況の人を見つけたいと思っていました。自分の周りの人たちはみんな元気ですし、私の両親も健康な身体で結婚し私を出産して、人生のライフイベントをほぼすべて実現しているわけです。そのため私は、家族ですら自分と違う世界の人間だと思うようになっていました。それに、同じAYA世代の当事者の方でも、がんを発症したのが結婚後なのか、あるいは出産後なのかで違います。私はまだ独身のときに発症したので、結婚していたのならうらやましいし、子どもを産めたのならいいじゃないと、どうしてもそう思ってしまいます。ですから私と同じ状況にある人が、どのように生きているのか知りたいと強く思いました。

-同じ状況の方とつながれたのでしょうか。

私は以前からずっとブログを書いていたのですが、がんであることがわかったころから、がんに対してのことも書くようになりました。こちらから積極的に同じ病気の人を探すというよりは、自分が受けている治療や身体の状態、日々思うことなどを綴っていました。そうしたとき、私と同じ種類の薬を服用している年上の方がブログにコメントをくださいました。その方とのやりとりの中で患者会があることを知り、行き始めました。初めて行ったとき、薬を飲み始めてからこういうことがある、ああいうことがあると話すと、みなさんが「わかる、わかる」といってくれました。最初の主治医とのコミュニケーションに悩んでいたところだったので、この薬を飲み始めるとこうなる人が多いんだとわかり、とても心が落ち着いたことを覚えています。

-ブログを書くことは日々の励みになっていますか。

心の中にもやもやしていることがあるときは、自分の気持ちがわからなくなっています。何がいやで、どうしてほしいと思っているのか自分でわからなくなっているときにブログを書くと、気持ちがまとまります。文章にしようとすれば、読む人がわかるように書かなければなりません。そのために自分の気持ちを整理する必要があるので、結果として自分がこういうふうに思っていたのかということにたどり着けます。

自分のことを一番に思ってくれる人がほしかった

-現在はどのように日々を過ごされているのでしょうか。

私は父の会社で事務をしているので、仕事のスケジュールなどで多少融通が利きます。そういう意味では、同じAYA世代でお仕事をされている当事者の人たちより少し恵まれているかもしれません。治療費については両親からの援助もありますが、それでもやはり高額なので、高額療養費成語等の支援制度はできるだけ活用しています。
ただ、一般的な企業であれば長期休職になってもそれなりの援助はあると思いますが、私の場合は父の会社なので、父が亡くなったらどうしようとときどき考えます。自分はどんどん歳をとって、仕事もなくなったらどうしようと思うと本当に不安になります。

-それで、結婚したいと考えたのですね。

はい。結婚したいと思ってからは、恋愛もしました。自分のことを、一番に思ってくれる人がほしかったのだと思います。結婚したいと思ってお付き合いできたとしても、いつかは相手に自分の病気のことを伝えなければなりませんし、今の治療を中断するというリスクを負わなければ妊娠もできません。どうしたらいいかと友人に相談したこともありました。幸いなことに夫は、病気のことを打ち明けても、私を受け入れてくれました。2人で話し合って、子どもを産まないことを決めました。いろいろなことに納得した上で結婚したので、夫は大きな心の支えになっています。
AYA世代の当事者の中には、恋愛について悩んでいる人たちが少なからずいるはずです。恋愛したい、結婚したいと思うのは自然なことなので、がんであってもいろいろなことまで諦めることはしないで欲しいなと思います。
私の経験を今後もブログで発信し、そういう人たちにいろいろな面で前向きになっていただければと思っています。

がんにとらわれず生きていくことにした

-病気になってから、こんなことはいわれたくない、してほしくないと思うことはありますか。

がんの話になると、「人はみんないつ死ぬかわからないんだから、気にしてもしょうがない」などとよくいわれます。そういわれると私は少し腹が立ちますし、悲しくなります。「人はみんな、明日交通事故で死ぬかもしれないから、あなただけが死と隣り合わせということではないのよ」といいたいのはわかりますが、実際に来月とか、来年とか、それまで生きていられるのかわからない状況に置かれたことがない人に、死について軽々しく語ってほしくないと思ってしまうのが正直なところです。

-逆にうれしかったことはありますか。

つらいことばかりで、うれしかったことは思い出せません。ただ最初のころは、がんになってよかったことはないかと、無意識に探していることはありました。たとえば、がんになったから新しい友だちができたとか。でもそれは何かを納得したいという思いが自分の中にあって、無理やりに考えていることだと気がつきました。
今は、がんにとらわれず、自分の素直な気持ちを大事にして生きていこうと思っています。がんになっていなかったら夫とも知り合っていないと思うのですが、それでもがんになってよかったとは思いたくありません。

-がんであることを意識しないということですね。

転移が見つかったころは、肺がんとつき合っていくためにいろいろ勉強しなくてはいけないと考え、本もたくさん読みましたし、患者会で知識を得ようともしました。しかし、いろいろな情報に触れるたびに、がんだからこうしよう、がんだからこうしなくてはいけないというように、何かと「がんだから」という枕詞が付くのです。私はそれが嫌でした。がんでなかったらこんな勉強をしないし、私にはそんな知識は必要ないと思うようになりました。もし病気が進行して新しい治療が必要になったら主治医の先生が教えてくれるはずだから、病気のことは知らなくていいやと思い、今もそのままです。

ほどほどに、を心がけながら好きなことはやる

-現在の生活で何か楽しみはありますか。

私はもともと車の運転が好きなのですが、免許を取得したときはオートマチック車限定でした。ところが、夫は結婚前からマニュアル車を運転しています。そこで、私も自動車教習所に行って、あらためてマニュアル車も運転できる免許を取得しました。マニュアル車を運転するのはとても楽しいですし、自分が車を好きなことを再認識しました。これからの目標は全都道府県をドライブ旅行で制覇することです。旅行ですから、もちろん毎回泊まりです。マニュアル車を夫婦で交代しながら運転できるようになったので、必ず実現します。
それから、私は服が趣味といえるくらいファッションが好きで、洋服店に勤めたこともあります。夫も同じで、特に古着が好きなので、休みの日に二人で古着屋さんにもよく行きます。あとは、つらい時期に「ゆず」の歌にいつも慰められ、勇気ももらったので、「ゆず」のコンサートにも行きたいです。

-最後に、治療を継続しながら生活するうえで、心がけていることを教えてください。

転移が見つかって分子標的薬の治療を開始するとき、最初の主治医から「薬を飲んでいても普通の生活はできますよ」といわれました。私はそれを聞いて、がんになる前と変わらない生活ができるという意味だと思いました。しかし、肺の一部を切除したことで体力は落ち、薬が原因かどうかはわかりませんが、いろいろな体調の変化はあります。つまり、主治医の「普通の生活」とは、入院をしなくてもいいとか、食事制限がないとか、人の手を借りずに生活ができるといったレベルのことだったのだと思います。
私の思い込みですからだれを責めようとも思いませんが、主治医の先生の言葉の意味をもう少し早く理解していれば、それだけ早く気持ちも楽になったと思います。疲労やストレスは、どこまでが病気や薬の影響で、どこまでがそうでないかはなかなか判断できません。ですから、もう少しできるかもと思ったところで止めておく、これをやったらきっと疲れるはずと思ったらそこで休む。先回りではないですが、遊びでも仕事でも、ほどほどのところでということをいつも心がけています。